フレーム問題とゼロ年代の想像力

90年代(正確には地下鉄サリン事件以降の90年代後半)は一言で言うと「引きこもりの時代」なんですね。「エヴァンゲリオン」の碇シンジ君みたいに、「世の中のしくみが変わってきて何が正しいかわからない」から「間違いを犯すくらいなら、何もしないで引きこもる」という思想が蔓延した時代です。

http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html

あの時 最高のリアルが向こうから会いに来たのは
僕らの存在はこんなにも単純だと笑いに来たんだ
耳を塞いでも両手をすり抜ける真実に惑うよ
細い体のどこに力を入れて立てばいい?
ぼくらの OP アンインストールより

なんだか古典AI工学で最初の最初に問題にされていたフレーム問題 - Wikipediaと同種の問題のような感じを受ける
俺も優先席に座っている若い男を見たら注意するか何かしらのアクションを起こす前に
「何故彼は優先席に座っているのだろう?乗車率から優先席に座る必要のある人間が座るだけの空席は確保されていると推測したのだろうか?もしかして外見的な特徴が見られないが優先席に座るべき何らかの理由を抱えているのだろうか
それとも彼は大学教員の日常・非日常:シルバーシートに座れなどのある一定以上の考慮を経た理由から優先席にあえて座っているのだろうか
その可能性があるならば、優先席に座る人たちにとって利となる理由から優先席に座っている人間に対して何の考慮もせずに座っている事だけを抜き出して注意する事は逆に優先席に座るべき人たちにとって害となる結果を及ぼすのではないか
そもそも優先席に座るべき人たちにとって何が損得なのか?優先席に座っている人間を押しのけて座るという行為に対して感じる不快感とストレスを持つ人がいた時その人にとって(主観的には)損なのではないか?
人間の快不快が生じる要因としてこの状況下で考えられるものは・・・・」
ぐらいは考える。
そして行動することが出来ない
このフレーム問題とどう向かい合うかと言う事に
90年代のセカイ系

「世の中のしくみが変わってきて何が正しいかわからない」から「間違いを犯すくらいなら、何もしないで引きこもる」
世界が複雑で不透明でよくわからないから、自分では努力しなくていい」
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html

と言う結論を出して
00年代の決断主義

「間違っているかもしてないけれど踏み出す」
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html

という結論を出している
セカイ系決断主義も向かい合う問題(フレーム問題)は変わっていない
2007-07-06ここで言われているルール主義は将棋やチェスのようにルールを決めてフレーム問題を
回避している
向かい合って結論を出すにしても回避するにしても出発点はフレーム問題に代わりはないようだ

決断主義」を経た上で、なお「仮想社会」を自覚的に選択するという層が、今後増えていくのではないかと考えているから。これを僕は「セカイ系2.0(仮)」(←ふるい)(いまさら2.0?)(死語)(←死語っていう言葉こそむしろ死語)(←あほのこだょ♪)とでも呼びたいとたった今考え付いたんだけど、
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html

フレーム問題を知った上でセカイ系決断主義(やルール主義)を経て七転八倒した後でそれを問題ととらえない考え方が次の世代の思想になるのかもしれない。
問題が問題でなくなったその後はまた違う種類の問題をどこかから引っ張り出して来て向かい合ったり悩んだりしながら無視していくのかそれともフレーム問題に対する思想で世代論的に語れる種別の思想が終わりになるのか
それはまた別の話・・・・